オタクに憧れる子どもたち
「こいつエロい小説読んでる!!!」
「あっ、お卓球部(オタク+卓球部)がいる 笑」
「その消しゴムあげる」
嫌ですよねこういう文章を見るの。
あの頃を思い出しますよね。
私も気分が悪くなってきました。
かつて、オタクが忌み嫌われていた時代が、確かにありました。
席替えで隣になった女の子には泣かれ、クラス会の時間は誰とも話すことができず、商店街ではヤンキーにからまれた時代が。
教室の後ろの方で「ハレ晴レユカイ」を踊ってるオタク(オレはアイツらをオタクとは認めてないけど?)を遠巻きに見ながら(キョンのパートはあいつじゃなくてオレの方が良くない?)と考えながらノートに小さな「殺」の字を書きなぐっていた時代が。
……そんなことばっかりしてたから忌み嫌われていたんでしょうか。
このままではオタクが忌み嫌われていた話ではなく僕が学生時代に忌み嫌われていた話になりそうなのでやめます。
閑話休題。
私もそうですが、いわゆる「ゆとり世代」以前の人たちは、「オタク」が迫害されてきた時代を鮮明に覚えていることでしょう。
そんな我々にとっては「オタクになりたい」という若者たちの主張はなかなか理解しづらいものです。
しかし、今をときめく若者たちを見るとどうでしょう。
インターネット上に長年存在している(あるいはかつて存在した)サイトについて語ることができれば「インターネット老人会」の一員として崇め、「まとめサイト」で得た話法やエピソードを武器にVIPやなんJで古参の真似事をしています。
また、SNSでは根拠の無い言説が氾濫し、それに対して牽強付会な孫引きもわんさか溢れています(あたかも自分が一家言あるかのように)。
なぜこのような社会になってしまったのでしょうか。
この日記は社会学や文化論といった学術的な観点を抜きにして、一個人の感想、推測でしかないため的外れなことを言っているかもしれませんが、もしかすると、「最低限の努力で他者と違う”個性的な自分”を演出するため」なのかも知れません。
読んだことのない本でも、自分の「キャラ付け」として知識をひけらかす。
体系的な知識も無いのに歴史上の人物について語り出す。
化学や物理学なんかもインテリに見えるから人気ですよね。
「シュレディンガーの猫」と言うのはね?(メガネくいっ
「ラプラスの悪魔」をご存知かな?(メガネくいっ
みたいな人も多く見受けられます(こういった人たちは若者に限ったことではありませんが)。
大人だとなおキツいですね。近づかないようにしましょう。
謙虚で、イキらず、等身大の自分を愛してあげて、そのままさらけ出すことができるようになれば、オタクなんかに憧れず、「自分らしさ」なんてものに縛られずに生きられるようになるのではないでしょうか。
そんな社会になればいいのに。
ここまで偉そうに講釈を垂れましたが、本当はこの日記もタイトルとか写真とかキツいし人のこと言えないんですよね。
それはわかっているんですが、かといって今更変更するのもダサい気がして動けないんです。
この文章は、ある種の自戒でもあります。
私自身、変に背伸びして余計なことを言わず、虎の尾を踏むようなまねをせずに生きなければなりません。
いや、でも……7年程前、このブログを開設したときにタイムスリップしてやり直したいという気持ちはあります。
もっと当たり障りのない、衒学的な面のない、穏やかでどこかほっとするような日記にしてやりたい。そう思っています。
あ、でもそうしたら「バタフライエフェクト」が起こっちゃうか。
あ、ちなみにバタフライエフェクトと言うのはね?(メガネくいくいっ
【Web記事を書くのが怖い。】
みなさんはご存知でしょうか。
これは、セブルス・スネイプがグリフィンドール寮に所属していた頃のことです。
……どんな記事であれ、上記のような書き出しはよろしくありません。
セブルス・スネイプが所属していたのはスリザリン寮だからです。
インターネットでは、些細な間違いや勘違いであっても「誤り」はマウントの対象となります。
文法の誤りや誤字脱字、誤用。原典の読み込みや時代考証の不足、根本的な勘違いなど、様々な点に注意を払って記事の作成は行われなければなりません。
また、故意ではなくとも人を傷付けたり悲しませたりしてはいけません。こちらに関しては詳細は述べません。良くないことだから、です。
ところで、最初の文章を読んだ人のパターンは大きく3つに大別できるのではないでしょうか。
①「お、なんだなんだ?」と思ってそのまま読み進める人。
②「なんかおかしくね?」「そうだっけ?」と違和感を抱き、セブルス・スネイプのことを調べ、誤りを確信する人。
③「いや、スリザリンだろ。記憶力があんまり良くない人か?記事読む価値もねぇわ」と思って、そのままブラウザバックをする人。
ただただ暇つぶしをしたいだけ、というときには①のようなパターンになることもあるでしょうし、自分の好きな話題や明るい分野のことであれば③のようなパターンになることもあるでしょう。
……すみません。
本当はわかってるんです。
「3つに大別とか言ってんじゃねぇ。俺は別のリアクションだ」なんて人もいるでしょう。
……いえ、違いますよね。
みなさんはそんな汚い言葉は使いません。
「私はこの記事の内容が間違っているとはわかりつつも、読み進めます」みたいな人もいますよね。
インターネット記事は、多種多様な読者のことを想像しながら書き進めないといけないんです。
それって、怖くないですか。
私はそれが怖いんです。
自分の文章によって読者がどんな顔になるのか。それを考えるのが怖い。
怖い。
怖すぎる。
インターネット・コワスギシンサク。
ほらね。
そういう顔する。
冒頭で
「どんな記事であれ、上記のような書き出しはよろしくありません。
セブルス・スネイプが所属していたのはスリザリン寮だからです。」
と書きましたが、この記載も怖くなってきました。
「セブルス・スネイプがグリフィンドール寮に入っていたら、というIFストーリーを書いてはいけないんですか!?」
「彼をナチュラルボーン・スリザリン扱いするんですか!?」
みたいな方もいるかもしれません。
うるせぇ。
どうせお前らが好きなスネイプ先生はお絵描き交流サイトのエコーチャンバーで醸造された原作とは似ても似つかないやつだろ。
偉そうにすんな。
……やってしまった。
こういう角が立つ言い方をするとインターネットではすぐに炎上してしまいます。
ごめんなさい。
記事のためなんです。
本当は、ファンの交流によってジャンル全体が活性化し、多面的な展開をしていくことは喜ばしいことだと思います。
作品の楽しみ方に貴賎は無いと確信しているものであります。
それぞれが思い思いの形で作品を楽しみ、ジャンルそのものも、個人の気持ちも大きく成長していくものですからね。
「怖い」と「成長」でAIのことを思い出しました。
AIブームも怖いですね。
この文章も、インターネットに出したら「どうせAIが書いてるんだろ」と思われるんでしょうか。
でも、どうやってAIが書いたのか人間様のオリジナルなのかを判断するのでしょう。
もう10年以上昔のことですが、大学生の頃、文章校閲のアルバイトをしていた友人が話していたことを思い出します。
「送られてきた文章がインターネットからの流用かどうかを確認するために特別なソフトに文章を入力し、Wikipediaや個人サイトからの剽窃(盗用、パクリ)ではないかを判断する」
ということができたらしいです。
ですが、それも10年以上前の話。
今では「AI文章チェッカー」みたいなソフトもあるんでしょうか。
でもきっと、今度は「AI文章チェッカーすり抜けソフト」みたいなものを開発する人も出てくるんでしょう。
そうすると今度は「AI文章チェッカーすり抜けソフト絶対許さないマン」みたいなAIができるんでしょうね。
あぁ、またやってしまった。
「絶対許さないマン」を茶化す意図は本当に本当に無いんです。
こういうミーム……
……ミーム?
これも用法を間違えると槍玉に挙げられ……
……槍玉???
もうダメだ。
この一億総監視社会では何を言っても燃やされてしまうかもしれない。
この発言だって「一億総活躍社会」をバカにしてるのかと思われるかもしれない。
違うんです。
昔から、「素敵だな」と思った詩やフレーズをノートにまとめる趣味があったんです。
これは確実に一線超えました。
自分でもわかります。
誠に申し訳ございません。
以降、読んだ人が不快に思うような文章は書かないよう尽力いたします。
みなさんも、インターネットで記事を書く際は決して炎上することのないよう、曖昧な知識で余計なことを言わず、他者を不快にさせることが無いよう気をつけましょう。
インターネットのこと考えてると本当に怖くなってきました。
文章も散らかったまままとまりがなくなってきました。
本当はまだまだ言いたいことがあるのに。電車の中で「ブシモ!!(東條希」って鳴らしてしまってから電車に乗れなくなった話もしたかったのに。
でももう終わりです。
何を言っても炎上する恐怖に耐えられません。
もう、本当に。
もう本当に辛い気持ちになってきました。
もぅマヂ無理。セクタムセンプラしょ。。。。
あぁ、またやってしまった。
徒然なるままに
「ブログ」に興味を持ったのが去年の2月。なんとなく始めるのが億劫だったものの、この年明けを契機にブロガーデビューをしてみた。
毎年盆と正月は実家のある京都は伏見に帰省しているものの、2泊もすればやることも無くなり近辺を徘徊するしか無くなってしまう。
今日も手持ち無沙汰のまま散歩をしていると「観月橋駅」へ到着した。そこから何処か遠くへ行こうと路線図を見ると、なんと「宇治駅」へ行けるではないか!
宇治…宇治と言えばアニメ『響け!ユーフォニアム』の聖地だ。「これは良い、話の種にもなるし大吉山へ行こう」と思い早速電車へ。
これが最初の間違いだった。
宇治駅へ到着するも、新年ということもあり人の多いこと多いこと。人混みに辟易しつつ宇治川に沿って歩いていると麓への入り口を発見。
ロクに調べもせず、「ここが大吉山か〜」と信じて疑わずに登山開始。
この甘い考えが2つめの間違いだった。
登頂後に気付いた。いや、途中から看板などで本当は知っていた。引くに引けず登りきったのは朝日山。
「まぁ風景は綺麗だったし良いか!」と思い下山。家へ帰ろうと思った先で大吉山への地図を発見。「お、近い!頑張って歩こう!」と思い来た道を戻る。
これが3つめの間違い。僕は地図が本当に読めない人間なのだ。
その後、何度も同じ場所を通り、時には住宅街を彷徨い、終いには宇治駅への帰路も分からなくなって歩き続け、こいつを見つける。「こいつを見るのは三度めだ。こいつに従って歩いては迷っていた。もう信じない…でも聖地行きたい…」と逡巡の末、もう一度だけトライ。
この不退の思いは間違いじゃなかった。
数時間歩き続けて疲弊しきった身体を引きずり、なんとか展望台まで登りきった。
いや、疲弊しきったとは書いたが、この道中はそれまでと違い、喜びに溢れたものであった。「あぁ、そうか、この道を、この道を久美子が歩いたのか」という思い。これだけで驚くほど素直に歩くことができた。
思わず立ち止まって深呼吸をしてみたり、久美子と麗奈の会話を思い出してふふふと笑いながらスキップしそうになったりしていたこと考えると、今回の登山経験から得たものは「どれだけ辛くても、気の持ちようで物事はうまく転がっていく」ということだ。
今年はこの学びを活かして、努力していきたい(現実に久美子はいない)。